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塾員インタビュー #2-2
■日本テレビアナウンサー
 鈴江奈々さん

生年月日 1980年7月11日
出身地 神奈川県藤沢市
最終学歴 慶應義塾大学経済学部

現在の主な担当番組
企業リサーチ200Z! 日 11:25〜11:30
N スポット天気 日 20:57〜20:58
NNN24 スポ天ワイド 日 22:30〜23:00 こちら




―アナウンサーを志望した理由はなんですか?

 アナウンサーになりたいと決定的に思ったのは就職試験が始まる直前のアナウンスフォーラムの時。それに参加して、『面白い〜!!』とときめいたのが直接です。でも、意識を始めたのは、大学2年生の時にイギリスに一ヶ月ホームステイに行ったのがきっかけです。


―ホームステイでどんな体験をされたのですか?

 語学学校で英語を勉強していたのですが、そこでは世界各国から色んな人が集まっていて、イギリスに限らず世界中の友達が出来て自分の世界が広がったと思いました。例えば、チェコスロバキアという国があって、今はチェコとスロバキアに分かれたというのは知識として知っているけど、そこがどんな国で、ましてどんな人が住んでいて、どんなことを考えて暮らしているのか、という事に触れることがないじゃないですか。でも、一歩踏み出してコミュニケーションをとることで、お互いを知るということの喜びを実感したんです。

 でも、そこで自分が体験したようなことはメディアでは触れられていないし、他の人には気づくきっかけも無い、そう思った時に、そういうことを伝えたいなと思いました。そして、直に自分でコミュニケーションをとって伝えたい、自分が感じたことを直接言葉で伝える職業って何だろうって漠然と考えはじめました。


―学生時代JADEなどで活躍をされていたわけですが、その体験がアナウンサーとしての自分に結びついてると思いますか?

 月並みなことだと思うんですが、大学4年間って、皆さんも自分ってなんだろうって、自分探しをしていると思うんですよね。そして、私もその一人で。ダンスは中学校の時からやっていて、大学でも続けていたのですが、自分が好きなことだから何かこれが仕事に繋がればいいなって気持ちはあったんですね。そして、JADEで表現すること、音楽を聴いてイメージを膨らまして創るという事が好きで、そういうクリエイティブな仕事を色んな方向からも探していいました。アナウンサーという仕事は、表現するという仕事でもあるし創る仕事でもあるんですよね。自分で取材をして感じたことを伝える、それ自体が創ることであり表現することじゃないですか。そういう要素が図分の求めていたものとリンクしてきて、アナウンサーという仕事にさらに興味を持ちました。本当に、学生時代って何をやりたいって決めていたわけじゃなくて、常に何かを探していた感じですね。


―ミス慶應としても活躍されていたわけですが?

 ミス慶應は、何でも挑戦してみよう、食わず嫌いはやめようって思って挑戦したんです。最初はコンテストだしどうなんだろうって微妙な気持ちが自分の中にあって、でも、折角出て見ないかと、声を掛けてもらった機会に対して、ヤダといって突っぱねてしまうのも食わず嫌いかなと思って。学生時代でないと、ミスコンテストに出るという機会も無いですし、何でも挑戦かなと思ってやってみました。


―そのときはアナウンサーになってやろうって気持ちは余りなかったのですか?

 そうですね。中にはアナウンサーを目指している人もいると聞いたことありましたが、私はそのとき全然考えていなくて。でも、そういうメディアの世界を覗けるのには近いところかなとは思っていました。街中で色々勧誘されて怪しいものも多いですが、学生だからアットホームで安心なところを感じて。いろんな世界を体験してみたいという好奇心もあったのです。でも、学生とはいえ、広告収入を貰ったり大きなお金が動いていて、自分が一つ一つ決めることの影響力の大きさを感じました。それはいい経験でしたね。


―ミス慶應になって、学校生活は変わりましたか?

 やはり、歩いていても「あっ」って(笑)。ミスになったらそういうこともあるかと覚悟していたのですが、やっぱりなってみると寂しかったですね。今までは純粋に『鈴江奈々』としてみてくれていた人にも、『ミス慶應』という看板で見られている気がして。自分自身は特に変わりは無いんですけど、別の名前が出来ちゃったみたいな気持ちで。ミス慶應の看板で見られると、『あ、そっか、私はミス慶應なんだな』って。
 最初はギャップを感じましたね。ミス慶應といっても、自分がどういう顔したらいいのかなって、もうちょっとキチンとした格好しなきゃいけないのかなとか。JADEだったので、普段はジーンズとかラフな格好だったので、「大丈夫かな?私」って。しばらくはそれを窮屈に感じていましたけど、気にしなくていいや『自分は自分だし』と思って、それ以降は何も感じなくなりましたね。



―再びJADEの話に戻るんですが、4年間続けられてたんですか?

 ホントにダンスのみの4年間でしたね。JADEも100人もいるサークルなので、年3回の公演だけ関わって、それが終わるとしばらく離れてって人もいれば、普段自分でもダンススクールに通いつめて、筋トレして、音楽を聞き込んでこれ舞台に使いたいなって考えてるタイプもいればという感じで。そして、私は後者の方だったので。でも4年間熱中して後悔は無いです。


―卒業してから経験が生きたことはありますか?

 これはアナウンサーに限ったことなのですが、「赤い靴」という時に、普通に言えばただの靴なんですけど「”赤い”靴」と言えば、ああ凄く赤い靴なんだろうなってなる。その一つの言葉に色んな想像力を膨らませるという作業があって、その意味ではイメージ、想像をするという点では、凄くダンスと繋がっていると思います。それがなかったら、今の自分は無いかもしれませんね。
 社会生活としては、一団体に長く所属していると、みんなで一つのものを創ろうって時に、細かいことですけど、お弁当の注文とか、一つの舞台は色んな細かい作業の積み重ねで成り立っているってのが分かるんですよね。セットを運んできて舞台を作ってとか、前日はこういう仕込みをしてとか。それで学年ごとに役割が決まっているので、4年間続けたことで、その全部が見られたのがいい経験になったと思います。やはり、一年生でやめるとそれは分からなかったかなと思います。色んな立場を経験できたのが大きいですね。


―そこまで好きなことを続けられるというのは凄く大変なことだと思うんですけど、好きなものを持ち続ける鈴江さんなりのコツってありますか?

 一つのことの中に好きな要素と嫌いな要素ってあると思うんですよね。ダンスでも、いつも好きってわけじゃなくて、練習は凄い辛いと思うこともあるし。忙しくてやりたいことがやれなかったりとか、夜遅くなっていいのかなこんな学生生活でって悩むこともあるし。でも、自然に続けられることがホントに好きなことなのじゃないかなって。それで、そういうことを探している人は、とにかく色んなものにとりあえず触れてみることかなと思います。
 そして、時間の使い方は自分次第なので、無駄なくすごして欲しいなと思います。私もJADEを一ヶ月やめてホームステイに行くって決めたんですけど、その期間JADEをやっているという学生生活を送ることも出来たんだし、逆にもっと長く1年まとまって留学するという選択もあったわけなんですよね。だから、これをやると決めたのならやり通して欲しいです。いろんなことに挑戦して、何か始めるって決めちゃったらとりあえず続けてみる。そうしているうちに何があわない、何が好きだと自分が分かってくる。続けることって意味のあることだと思います。


―アナウンサーになられる時もそうだったんですか?

 そうですね。アナウンスフォーラムでときめいてからは、やりたいんだ、向いているんだ、と自分に言い聞かせていました。自分らしさというのは、自分自身にウソをついていないことなんですよね。ぱっと感じて、あ、いいなって思ったものを周りの目を気にしないで信じました。、エントリーシートを書くときも、ただダンスだけじゃなと思って、特技に動物の鳴きまねって書いたんですよね。そしたら面接官が見逃すわけもなく、毎回泣きまねをしていました。でも、自分の中の壁を外すことで個性が出てくるのかな?こうじゃなきゃいけないって壁を外すのが大事ですよね。

―最後に、慶應に通う塾生に向かってメッセージをお願いします。

 慶應って、色んな人がいると思います。いろんなサークル活動に励む人がいたり、Wスクール行っている人もいたり。そういう周りの人から色んな刺激を貰ってください。意外と身近に刺激があると思います。色んな人がいたなっていうのは社会にでてから感じます。卒業したあと感謝する事は、OB・OGの結束が強いことです。OGというだけで色んな人が気に掛けてくれて、それは本当に宝だと思います。だから、色んな団体やサークルとか沢山あると思うので、積極的に活動してみてください。


取材   村井裕一郎
 南郷史朗



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