三田祭の歴史・前編
#3
三田祭の歴史
[前編]

◆特集 - 第47回三田祭

1959年に第1回三田祭が始まって、早や47年。激動の時代を駆け抜けてきた三田祭を、半世紀前にまでタイムスリップして、最初から最後まで振り返ってみたい。前編では、第0回三田祭?(昭和33年)から第15回三田祭(昭和48年)までを扱う。日本経済も復興の兆しを見せた中、おぼろげながらも立ち上がった三田祭の草創期のころの模様と、まもなく訪れる安保闘争による動乱した状況下の三田祭の様子という、あまり明らかになっていない時期の資料を凝縮してお伝えする。また、先日大盛況の中MISIAライブが行われた前夜祭、その歴代出演のアーティスト一覧も収録した。そんな47年間の歴史の重みを感じて、三田祭を大いに味わってほしい。

■年代ごとの分類

三田祭歴史

▲1970年版三田祭パンフレット

三田祭の歴史について触れてゆく前に、まず三田祭の年代を以下の6つに分ける。

▼昭和33年以前(〜1958) 第0期「プレ三田祭」
全塾的な権威の「象徴」としての三田祭。

▼昭和33〜39年(1958〜1964) 第1期「黎明期三田祭」
「慶應義塾祭」に端を発する、近代三田祭の始まり。

▼昭和40〜48年(1965〜1973) 第2期「学生運動期三田祭」
学生運動の波に翻弄される三田祭。

▼昭和49〜56年(1974〜1981) 第3期「迷走期三田祭」
学生運動の影響を引きずりながらも、楽しさを追求した時期。

▼昭和57〜平成5年(1982〜1993) 第4期 「享楽期三田祭」
折からの好景気に押される形で、学園祭ブームの一端を担った時期。

▼平成6年〜(1994〜) 第5期「安定期三田祭」
バブル経済が破綻し、本来の三田祭の意味を模索し続ける時期。

前編では、第0期から第2期まで、三田祭の原型となるものが出来てからと、その草創期の様子を取り上げたい。

▼第0期「プレ三田祭」

■三田祭の鼓動 刻を越えて

三田祭歴史

▲1973年版三田祭パンフレット

三田祭のごとき学園祭は戦前より存在したが、詳しい事はわかっていない。
そんな中、プレ三田祭とも言うべき三田祭が行われた。それは、昭和28年に慶應義塾創立95周年を記念して行われた「三田祭」と、その成功を受けて翌昭和29年に行われた「統一三田祭」である。

いずれも全塾自治委員会(現在の福利厚生機関の走り)が中心となり実施した。

この頃の「三田祭」は、期日は3日間、来場者数も2〜3万人と、小規模なお祭りであった。


▼第1期「黎明期三田祭」

■【第0回三田祭? 慶應義塾祭開催】(第0回三田祭)

三田祭歴史

▲1974年版三田祭パンフレット

創立百年記念慶應義塾祭(昭和33年)

現在の三田祭の起源である「創立百年記念慶應義塾祭」(*1)が、昭和33年(1958年)の11月12日から16日にかけて日吉で敢行される。

*1:「創立百年記念慶應義塾祭」は、慶應義塾創立100周年を記念した「慶應義塾創立百周年記念祭」の一環として、塾当局が企図したものであった。 記念祭は、一年を通して行われ、さまざまな企画が実行された。その予算規模は16億であったといわれるが、昭和30年代は現在より額面の10倍くらいの価値があったそうである。また前夜祭の舞台となっている「日吉記念館」はこの一環として建造され、慶應義塾祭の中で落成式をかねた記念式典を行った。その他にも記念パレードや福澤翁縁の地を巡る旅行・ツアーなどを行ったようだ。

三田祭実行員会の前進である、「創立百年記念慶應義塾祭実行委員会」(*2)が発足。

*2:塾当局が数年をかけてこの準備を行っているのを聞きつけた当時の塾生たちの間に、塾生の側でも何らかの形でこの「慶應義塾創立百周年記念祭」に参加しようという機運が高まり、昭和32年12月17日に「創立百年記念慶應義塾祭準備委員会」が設置され、翌昭和33年5月1日に「同実行委員会」が発足することになった。

「慶應義塾祭」は入場者123,989名を数え、成功のうちに終わった。

しかしながら、全体的にやや享楽的な面が強く、「学術強調」という反省を残す。

■昭和34年度三田祭 三田祭事始(第1回三田祭)

三田祭歴史

▲1976年版三田祭パンフレット

昭和34年度三田祭(第1回三田祭)

「慶應義塾祭」の興奮冷めやらぬ中、昭和34年度三田祭が行われた。新世紀への第一歩を踏み出した慶應義塾の輝かしい門出を祝して11月12日から15日まで三田山上で開催。ここで、会場が三田になり、名称も「三田祭」に戻る。

従来の「三田祭」や「慶應義塾祭」での反省もあり、学術的傾向が第一義的に志向されるようになる。

また、初日を学術重点日として学術講演会を多く打つという理由で、従来の三田祭は3日間であったものを4日間としている。これが現在まで続いているのである。

落成まもない南校舎では、ゼミ展示が行われた。開催式では塾長が挨拶をし、塾教授による公開講座を行った。
この年、渉外部による福引企画が行われる。

「三田祭」の知名度も上がり、来場者が15万人を超えた。アドバルーンやテレビなどの宣伝を活発に行い、一般紙も三田祭開催を報道するなど、学園祭ブームの端緒となった。しかしながら、「三田祭をコマーシャリズムに売り渡した」という批判も内外からあった。

こうして「現代三田祭」が動き出したのである。

■昭和35〜39年度

三田祭歴史

▲1978年版三田祭パンフレット

昭和35年度三田祭(第2回三田祭)

この年昭和35年は、おりからの安保闘争で、全国的に議論が沸き起こり学生運動の走りが起こった年であった。

この年で目立った企画は、5日目として連合三田会と提携して連合三田会を行ったことである。

参加団体総数177、企画総数234、入場者数115,000人

昭和36年度三田祭…ではなく、昭和36年度慶応義塾祭(第3回三田祭)

この年は、三田キャンパスにおいて大規模な工事(*3)が行われ、三田キャンパスでの三田祭開催が困難になり、日吉でおこなわれることとなった。

*3:この工事は、戦後のベビーブームによって狭隘になるであろう三田キャンパスに新校舎を、というものであったが、これが学費値上がりにつながり、学生運動の遠因となるのである。

昭和37年度三田祭(第4回三田祭)

この年では、例年、内々で決められていた三田祭実行委員会の委員長を、塾生の直接選挙によって決しようという提案が出されるが、反対された。

昭和38年度三田祭(第5回三田祭)

実行委員会自身が「三田祭のマンネリ化が進行している」という自覚を早くも持った年。

前夜祭として、三田祭2日前に千駄木体育館でダンスパーティが開催される。

昭和39年度三田祭(第6回三田祭)

この時期は、未だに残存しているフェスティバル的な色彩から抜け出して、アカデミックな面を追及していこうとする要求が実行委員会の内外で強かったという。

統一テーマ(*4)は、この年も設けていない。

*4:実行委員会の基本方針がそれに代わるものとして存在していたとはいえ、統一テーマを設置しないのが三田祭の特色であるという考えもあった。しかしながら統一テーマへの欲求は日増しに大きくなっていった。そこで、来年度以降へのステップとして、アンケート調査や広報宣伝活動により、統一テーマ論争に参加団体をも巻き込んで行ったのである。

▼第2期「学生運動期三田祭」

■昭和40〜48年度三田祭 学生運動と三田祭

そして昭和40年度三田祭を迎える。このとき、三田祭は新しい一歩を踏み出すことになる。それは学生運動である。
昭和40年におこった学費値上げ運動に端を発する慶應の学生運動は、昭和48年に学費値上げ闘争が終結するまで続いた。
三田祭も、思想的な色が濃いものになっていった。

昭和40年度三田祭(第7回三田祭)

この年、三田祭に激震が起こる。
頑なに統一テーマを拒んできた三田祭に、統一テーマ(*5)を設定されることになった。

*5:三田祭にテーマを設けたことは画期的である。これはマンネリ打破と参加する学生への後押しをする意味があり、三田祭に望む基本的態度を養わせるものである。このテーマは、日頃ゼミなどで取り組んでいる問題について、その問題意識を大学祭で明確にして発表し、討論するための問題提起として設置されたものである。

テーマは「意欲の中から創造を、対話の中から連帯を」と決定。(*6)

*6:このテーマは、「学生の創造的文化運動を推し進める必要があるとの認識から生まれており、三田祭を通して、相互の対話の回復を図り、全人格的なふれあいと連帯を生み出すよう呼びかけているものである」という。

この年は、前夜祭・後夜祭をそれぞれ別日程で行った。

昭和41年度三田祭(第8回三田祭)

統一テーマではなく、"個人に思想を! 世代に使用を!"という三田祭基本テーマ(*7)を設置。三田祭の方向をはっきり打ち出し、塾の特色を活かすものになるようにすることが目的である。

*7:これについて、当時の委員長は次のように説明している。
「これは統一を強要する意味ではなく問題提起として出し、"思考練磨・意見の場"としての三田祭を実現する方向に進め、各参加団体としても、特色を活かした方法で、さまざまな方向からアプローチして解決していただきたい。」
つまり、テーマによる「統一」をめざすのではなく、テーマをもとに各参加団体がそれぞれの活動を展開する形にし、テーマの強制力を弱めたのである。

この年は、前夜祭を日本武道館で行っている。また、安保体制についての講演会も行われた。

三田祭歴史

▲1979年版三田祭パンフレット

昭和42年度三田祭(第9回三田祭)

この年は三田校舎増改築のために日吉校舎で開催されている。
三田祭基本テーマには、「日常性の中から冒険への志向を!」というものが据えられた。

昭和43年度三田祭(第10回三田祭)

この年度はかの有名な「東大安田講堂篭城」が起こったときであり、学生運動の最も激しい時期であった。
「激動する現代と主張する学生」という基本テーマの下に行われたが、それとは別に、実質的テーマであるスローガンを参加団体との話し合いで決めていったようである。

昭和44年度三田祭(第11回三田祭)

この年の初めに東大安田講堂陥落があったとはいえ、未だパンフレットには「全共闘」「班安保」の文字が躍る。そのため、思想的な内容の三田祭実行委員会本部企画部名義のコラムがいたるところに散見される。また実行委員会が、思想的なコンテンツとして映画上映を行っている。

展示発表は政治色・思想色が豊かではあるが、催物や模擬店などはいたって普通の出展を行っている。

昭和45年度三田祭(旧暦12回三田祭)

前年度に比しては、学生運動色は多少薄くなった。しかしながら、思想的な展示発表は存在し、パンフレットのコラムは哲学的に書かれている。

昭和46年度三田祭(第13回三田祭)

哲学的な雰囲気が薄くなったとはいえ、まだ根強く学生運動の痕跡が見られる。
一般団体の展示発表の政治色はだいぶ薄くなった。

昭和47年度三田祭(第14回三田祭)

学生運動色はほぼ消え、達観した哲学的な雰囲気になっている。
前夜祭として、518教室と中庭・西校舎前・519教室で同時多発的にイベントを行っている。

昭和48年度三田祭(第15回三田祭)

この年は、慶應における学生運動終焉の年であった。そのため、そのような色はまったくなくなってきていた。

映画の発表が多く見られ、中には「Sweden Sex-Cinema」なる公序良俗に反する発表もあったようだ。

■附録:前夜祭出演アーティスト

三田祭歴史
年度アーティスト名
1981松任谷由実
1982佐野元春・山下久美子
1983沢田研二
1984時任三郎
1985稲垣潤一
1986渡辺美里
1987杉山清貴
1988久保田利伸&Mother Earth バブルガムブラザーズ
1989米米CLUB
1990安全地帯
1991スターダスト・レビュー
1992森高千里
1993佐野元春
1994谷村有美
1995今井美樹
1996井上陽水 with RISKS
1998小田和正
1999知念里奈・篠原ともえ
2001中島みゆき
2003松浦亜弥
2004CHAGE&ASKA
2005MISIA