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#15 [06/11/16]
株式会社フラクタリスト
取締役経営管理部長 橋爪小太郎さん
フラクタリスト

 2006年10月11日に、名古屋証券取引所セントレックス市場への上場を果たしたフラクタリスト。
ネットワークを利用した未来社会実現をリードするフラクタリストを支えているのは、実は20代から30代の若者である。
 「興味があるとどんどん行動してしまう」と話す橋爪小太郎さん(法政卒)は、今26歳。
フラクタリストの取締役として経営を担う一人だ。この行動力と情熱の源泉を、探りたい。

■株式会社フラクタリスト
http://www.fractalist.jp/



■「どこでも楽しいネットライフを」

社名の「フラクタリスト」とは、自己相似形的(フラクタル)に拡がる知的創造集団を形成しようという企業理念の一つから来ている。
今や社員が50名程、派遣社員も入れると80名程になるという。i-modeやezwebといった、携帯を使ってインターネットにつながるモバイルインターネット事業でビジネス展開をしている、誕生して6年目の会社だ。

―今、どういったお仕事をされているのですか?
何でもやっていますね。管理系の業務、会社の資金調達、経理関係、採用や採用後の教育といった人事、総務の仕事、IR業務など、幅広くやっています。取締役として、社長の田中(*1)と一緒に会社の経営を常に考えています。

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▲フラクタリストの会社パンフレット

会社の事業としては2つ、モバイル事業とNomadicNode事業があります。モバイル事業は携帯サイトの開発、NomadicNode事業はネットワーク関連、簡単に言うと、携帯電話から家のエアコンのスイッチを入れるなどの未来社会のインフラ作りをしています。
あとは、フラクタリスト・チャイナといって中国の北京に関連会社があって、そこではモバイルマーケティングやモバイル広告の販売をやっています。中国にはたまに出張で行きますね。

何でもやっているという言葉通り、会社の全分野に渡って仕事をしている橋爪さん。
大学在学中は、どんな学生だったのだろうか。


(*1)田中佑介 代表取締役兼CEO
慶應義塾大学総合政策学部卒業、大学院政策メディア研究科修士課程修了。
在学中にweb政策事業を手がける電脳隊を設立し、2000年6月、フラクタルコミュニケーションズ(現フラクタリスト)を設立、現在に至る。
田中佑介のブログ http://www.fractalist.jp/blog/

■中国で感じた圧倒的なスピード感

―日吉時代は何をされていたんですか? その質問に、橋爪さんは何もしていなかったと笑顔で交わす。しかし、よくよく聞いてみると今の仕事にもつながる活動があった。

慶應義塾高校の出身だったんですが、もともと政治学科を選んだのは、今後中国に関係することをやりたいと考えていたからなんです。中国政治に興味があって、専攻しようという意思で入りました。
大学1年のときに中国に留学して、これはおもしろいと思ったんです。そこからは中国語を勉強して、アジアや中国に短期留学に行って勉強していました。興味があると、どんどん行動しちゃうタイプなんですよ。今になってみれば、中国語も話せるし、会社でも中国事業をやっている。結果的にかなり役に立ちましたね。

―中国での短期留学で学んだことや、印象に残っていることは何ですか?
短期留学で学んだのは、語学、ものの考え方、世界観ですね。できるだけ溶け込もうと、太極拳を習ったりといろいろやりました。感じたのは圧倒的なスピード感です。夏に中国に行って、また春に行ったときとでは、半年くらいで街が全く変わっているんです。この前久々に中国に行ったら、2008年の北京オリンピックの準備の影響もあって全く景色が変わっていました。日本の高度経済成長期と同じような感じですね。今の日本とは圧倒的に違うスピード感に感銘を受けました。そのスピード感と、そこで感じた空気が印象に残っています。

―三田では、中国に関わる勉強をされていたんですか?
三田では、中国現代政治の山田辰雄先生(*2)のゼミで勉強していました。国分先生(*3)をはじめ、慶應は中国研究が一番進んでいるので、本当に幸せでした。

(*2)山田辰雄先生
慶應義塾大学法学部教授を経て、現在は放送大学教授。専攻は中国近代政治史。主要著作に『中国国民党左派の研究』(慶應通信、1980年)などがある。
(*3)国分良成先生
慶應大学法学部教授であり、慶應義塾大学東アジア研究所所長も務めている。専攻は中国現代の政治・外交,東アジア論で、現在政治学科に研究会を持っている。

■自分でも事業を起こしたい

橋爪さんが三田に進んだ2001年。その頃は丁度、2000年にサイバーエージェント、続いてオン・ザ・エッヂ(ライブドアの前身)が東証マザーズに上場した後で、新進のIT企業が注目されているときでもあった。

堀江さんや藤田さんといった若い人が上場を果たしていて、若いのに面白いな、と感銘を受けましたね。その影響もあって、自分でも事業を起こしたいなと考えるようになりました。大学3、4年のみんなが就職活動をやっているときに、1人で経営者のセミナーや講演会に行っていました。

―どのようにアンテナを張っていたんですか?
当時はネットとかあまり使えませんでしたし(笑)、雑誌で調べたりしていましたね。あと、大学3年くらいから母の影響で株式投資を始めたんです。株式をやると会社を見る目が変わりますね。企業のIR情報からも情報収集していました。

―どのようなところに投資していたんですか?
ネット系や新興市場に投資していました。ベンチャーにしか興味がなかったんですよ。これから急成長していく分野に興味があるんです。新しいことや変化が好きなんですよね。
在学中、慶應では小さい会社や新しいことをやることに対して偏見がありました。でも、「そうじゃない!新しいことをやるのも楽しいよ」と思っていましたね。

■伊藤忠で学んだことが今の原点。でも、自分の人生に挑んでいくことを選んだ。

興味があったのはベンチャー企業。しかし、就職したのは大企業である商社伊藤忠商事だった。商社に決めた理由は、何だったのだろうか。

自分で事業をやりたい、経営したいという思いがあって、そのためには何をしたらよいかを考えていたんです。商社が面白いと思ったきっかけは、"このビジネスを組み合わせて自分たちで作ってこう卸そう"とか、"こういう面白い種の会社があるから、そこにお金を入れて大きくしよう"といったビジネスモデルを作れるのが商社だったからです。どういうふうにビジネスを経営していくかを商社で勉強したかったんです。伊藤忠での配属は、始めに建設部門、それから金融部門にいました。金融では新しいビジネスをやっていて、ファンドとかベンチャー投資もやっていたのでそこで自由にやらせてもらいました。

本当に勉強させてもらったけど、大企業なので意思決定権は若い人にはないし、非常に決定に時間がかかる。そこに不満は感じていました。同期に気の合う新入社員が何人かいて、今は全員ベンチャーで会社経営をしていますが、本当に生意気でしたね(笑)。4千人くらい集まる全体の総会で手を上げて、当時は日産にゴーン氏が来ていた頃なので「女性の役員も外国人の役員もいないのは、閉鎖的ではないですか。日本人の、下から上がってきた人だけでやっているのは変えるべきだ!」なんてことを発言したりしていました。

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自分がやりたいと思う気持ちが強いので、おかしいと思うところに妥協はできなかった。おかしいと思っても、みんな受け入れているから自分も受け入れる、ということに矛盾を感じていましたね。
そんなとき、同じ思いを持った熱い同期2人と、働きながらいろいろ調べたりいろんな人に直接メールして会おうとしたりして、ベンチャー、特にネット業界でどんどん人脈を広げていきました。

元々5年くらいで辞めるつもりだった伊藤忠を、結果的には2年と少しで退社することになる。そのとき、迷いはなかったのだろうか。

迷ったけど、全く後悔はしていません。どんな決断をするときも人間だから迷うけど、最終的に後悔することだけはしないと決めて決断するので、後悔はしないんです。僕は常に危機感を持っているんですが、伊藤忠にいるときも危機感を感じていました。このまま伊藤忠の甘い環境にいたら、お給料も上がって世間的にはエリートと言われていい気分で生きていける。でも自分は自分の人生に挑んでいきたいと思っているので、伊藤忠にいたらそれができなくなってしまう。そういう考えからベンチャーにチャレンジすることを決めました。ベンチャーはあまりに大変で、明日食べられなかったら…という環境なので、今でも常に危機意識を持ちながらやっています。

元々、ベンチャーでどうやってお金を集めてどうやって事業で生み出して大きくなっているのかというファイナンスの理論や投資に興味を持っていた橋爪さん。ベンチャー投資や支援をする会社に、身を投じることになる。

■朝の9時から、次の朝5時まで

僕は3人目の社員だったんです。セミナーで出会った人の会社で、マンションの一室、売るものも何もないところから始めました。どぶ板営業で自分を売り込んで人と会って、何もないけど契約を取ってくるということをやってましたね。寝ずに9時から5時で働いて。夕方の5時じゃなくて、朝の5時ですよ(笑)一回はこういうことを徹底的にやらないと何事もできないです。社員もみんな本当にできる人たちで、ここで学んだ「徹底的にやる」ということは今でも私の力になっていると思います。

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ベンチャー支援の会社だったので、お客様がベンチャー企業の社長だったんです。社長に実力を認められないと仕事が回らないから、必死にやるしかなかった。何事も頑張っていると見てくれている人はいるもので、社長の知り合いが増えてネットワークができたんです。

―最も辛かったことは何ですか?
苦しかったのは、何もないところから組織を作るということ。頭をフル回転してとにかく動かないといけないから、体力的に辛かったです。でも、そのおかげで今がある。

1年程経ち、社員が5人に増え事業が回るようになった頃、橋爪さんは会社を辞めた。この後一ヶ月程、中国やカンボジア、ミャンマーといったアジアで自分自身を見つめ直したという。そして、ベンチャー投資の最も成功しているシリコンバレーを肌で感じたいと、アメリカに向かう。このシリコンバレーで、フラクタリストの田中社長との出会いを果たすことになる。

■出張は、口実でした

―シリコンバレーでは、どんな活動をしていたんですか?
英語を勉強したり、企業家や有名な日本人にいきなりメールや電話をしてアポイントを取って会っていろいろ話し合ったりしていました。あんまり僕みたいなことをする人はいないらしくて、割に会ってくれて(笑)その過程で会った人と一緒に会社をやろうという話をしていたんです。そんなときに田中が人を介してアポイントを取ってきて、「たまたま出張でシリコンバレーに行くから会いたい」と言われたんです。怪しいと思ったけど、彼はネット業界では有名で、フラクタリストという会社も知っていて興味があったので会うことにしました。

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ナパバレーでワインを飲みながら、ずっと「一緒にやってくれ」と言われました。フラクタリストは単純にサービスで何かやるというよりもコアの技術力があって、世界を引っ張っていけそうな会社だなと思ったんです。田中も日本の技術で世界を引っ張っていきたいと強い想いをもっていて、ネット・通信業界の先を見る目が面白いと思いました。何よりわざわざ会いにきてくれた田中の熱意に魅力を感じたのと、経営管理を統括する人、つまりCFO(最高財務責任者)という立場の人がいなくて、田中だけで会社をまとめていくことは難しいだろうなと思いました。それで、僕が助けてあげようと思い、一緒にやるために帰ってきたんです。後々聞いたら出張はなかったらしいんですけどね(笑)

経営っていうのは、周りの経営者、取締役がどれだけ同じ思いを持っているか、どれだけ社長をフォローできるかが大事。田中はとび抜けたところがあるけど万能ではないので、社長をフォローするというところで結果的に一翼を担えているかなと思います。

■出会いに感謝。そして、恩返しの人生を

橋爪さんの言葉の端々に感じる、強い意志とアグレッシブな姿勢。この源泉は、一体どこから来ているのだろう。

人がやらないことをやりたいんです。本当に働けるのは、体力的にも頭の回転という意味でも30年くらい。時間は誰にとっても有限なものですよね。時間が限られている中で、いかに集中した濃密な時間を過ごすか。限られた時間軸をしっかり捉えて、日々新しいものを作るために積極的に動いているんです。

あと僕は本当に運がいいと思っています。運だけでここまで生きてきたと言っているんですけど、その運とは人との出会いなんですね。転職活動ってしたことがなくて、誘われたり、たまたま出会った人と一緒に仕事をしたりしてきています。本当に出会いが大切なんですよね。人との出会いは非常に大切にしています。一つ一つの出会いに対して感謝の気持ちがあるので、必ずそういう人に恩返しをしたいと常に思っています。そのために自分はどうするべきかを常に考えています。

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―最後に、慶應生に思いの丈をぶつけて下さい。
大学生活は時間があるので、ありきたりなことを言うと、勉強しておいた方がいいよ(笑)
でも、成長するためには、勉強だけで無く実践も重要だと思う。例えば経営学なら、理論を学ぶだけなら頭でっかちになってしまうから、学んだ上で実践して、学んだことがどういうふうにあてはまるか知って、また勉強して試してみて、こういう考え方もあるんだっていう繰り返しの勉強が必要ですね。昔はなかったけど今はインターンなどで組織に入る経験もできるから、実務を経験して、また勉強してもらえたらなと思います。僕は両方できなかったので、ぜひやってもらいたいですね。

大した人間じゃないんですよ、としきりに謙遜する橋爪さんだが、過ごした1つ1つの場所で密度の濃い時間を重ねてきたことが感じられる。何事にも徹底的に取り組む姿勢に、同士も集まってくるのだろう。上場した今、橋爪さんの更なる恩返しが始まっている。

株式会社フラクタリスト
http://www.fractalist.jp/

取材 北林寛子・吉見拓也・成瀬綾