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塾員インタビュー #12
■株式会社イレギュラーズアンドパートナーズ
 代表取締役社長
 山本一郎さん(切込隊長) Part1
イレギュラーズアンドパートナーズ 代表取締役社長 山本一郎さん

ネット界にその名を轟かせる「切込隊長」、山本一郎氏。
個人投資家にして、ゲームやインターネット関連企画のプランナーでもある。 有名インターネット掲示板である「2ちゃんねる」の創設にも関わり、 現在は人気週刊誌「週刊SPA」などに連載を行うという凄まじく多彩な顔を持つ。
今回はそんな山本氏に、在籍時代を思い出しながら、 「慶應」について辛口で切り込んで頂いた。
今の大学生には考えられないほど波乱万丈な大学生活を送った彼の話は、 その切り口がとても鋭く、考えさせられるところが非常に多いだろう。

ジャーナル編集部も驚いた彼独特の辛辣なコメントを、ご堪能していただきたい。

■切込隊長BLOG(ブログ)〜俺様キングダム〜
http://kiri.jblog.org/
■イレギュラーズアンドパートナーズ株式会社
http://www.i--p.com/



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■どんな大学生活?

KJ : 隊長はいつから慶應に入られたんですか? 大学ではどんな生活を?

僕は中等部、塾高、大学と。

大学では自治会とかを。 いまでは君達の慶應ジャーナルっていうのがあるみたいだけど、 僕がいた頃は「塾生新聞」と「塾風」ってのが、2誌くらいあって、 「塾風」ってのは当時レフトの人が作ってた。 で、嫌がらせして潰したんだけど(笑)。 「文化団体連盟は不偏不党である」とか適当な理由つけて「おまえ発行許可出さないから」って。

あとは、当時、全塾協議会とかいうインチキな団体があって、僕がそれの2年目の代表。 なんか学校から自治会費巻き上げて、三田祭実行委員会とか その辺に配分するという微笑ましい団体があってですね。 いま思うと金権政治まんまの世界で、本当にあれ最悪ですよ。 どうなんだろうと思いますけどね。

丁度その前に僕が文連の委員長もやっていて。 3年の時委員長になって4年の時に後継者いなくてもう一年やって、 そのあと一回留年して、さらにもう一回、合計3年間委員長やってですね。 もう非常に多大なるご迷惑をおかけしてました(笑)

それでも「慶應とはそもそも何であるか」っていうのを その頃に学んだっていうのはありますね。 それまではなんて事はない中高一貫校だった。 色々と勉強させて貰った、なるほど「世間っていうものはこうなっとるなぁ」と。 例えば当時で言うと塾生新聞とかマスコミがあって、だいたい権力を叩く訳ですよ。 で、僕達も紙面で叩かれたりして。当たり前のことなんですけどね、意味のあることは何もしてなかったから。

たかが大学の自治会とはいえ、人間が織り成す社会の縮図だなぁと思ったりした部分があったりとか。

KJ : 昔に比べると学生新聞界隈も最近はおとなしいですね

昔はいろいろありましたしね。すごく朝日新聞みたいな感じでした。反体制、批判するペンの力、みたいな、欲得のない純粋な媒体を志向する塾生が多かったです。 レフトとは言いませんけど、体制批判みたいな感じで結構ガリガリ書いてて。 自治会でも合宿とかやる訳ですけど、合宿について来てですね、 「自治会が合宿でマージャンやってた」って記事にする訳ですよ。 マージャン位やったっていいじゃんと思うんですけどね。

でも最初は、やっぱり体制を批判していたんだけど、 だんだんギリギリと記事で叩かれてやられていくうちに、丸くなっていくという・・・ そういった意味で色々活躍させていただきましたけどね(笑) その辺が今にも無駄に生きているというか。 ある種の暗躍の仕方って言うのをよく学びました。

【関連リンク】
慶應塾生新聞 http://www.jukushin.com/
全塾協議会 http://keio-zenkyo.com/
(文化団体連盟 http://www.keio-zenkyo.com/bunlen/index.htm

■大学で苦労したこと

KJ : 大学時代で一番苦労した事は?

僕の前の年位まで、自治会に物凄い左翼の人達がいて、 やっぱりそういう学外の人を追い出すのが一番大変でしたね。 何しろ法政大学とか明治大学とか、変わった所でいうと国士館とか、 まあとにかく大学の外部の人たちが義塾に来て活動をしておったわけですよ。 いわゆる職業学生活動家。プロ活動家がいたんですね。

まだ学研連ってあるんですかね? ないですよね。 ああいう、どう見ても「おまえ法政か何かだろ」って感じの、 明らかに慶應じゃないレフトの人達が「自治会だ」って言ってたんですよ。 インチキな左が結構いたんですね。

で、その団体が学外の活動で部室を占拠しているという事件があって。 日吉の塾生会館の一階が彼らの溜まり場になってた、と。 代わりに広いスペース持ってた ワグネルっていう人畜無害な団体が追い出されてた訳です。

彼らって、基本的に人畜無害じゃないですか。 なんら怖い事はしない訳で。 そのせいか逆に一部の人から「ワグネリアン」って言って迫害されてた。 「あいつらワグネリアンだから荷物どかしちゃえ」とか(笑)

あとは「塾風」とか「慶應新聞」を、彼らが占拠してですね、 もう無いのかもしれないんですけど、三田の校舎の地下に部室があって、 そこがアジトと化していたんですよ。


KJ : 学生団体ルームですね

そうそう。そこに輪転機があったんで。 ビラを大量に撒くので、ゴミが一杯出る。 で、苦情が出るので「なんとかせにゃならん」って事で、 アイスホッケー部と、剣道部と、応援指導部か何かと一緒になって、 アジトを急襲したんですね(笑)

彼らの私物を撤去して、人質にとって、 「返して欲しくば慶應の外で活動しろ」って。 それでむこうは「資産を乗っ取られた!」とか言って号外を出す訳ですよ。 他の大学に。

それが面白かったですね。 まあ彼らは、武力行使して強制排除すれば何て事はないんですよ。 なんか、それまでゲバ棒でも持って抵抗でもされるのかと思ったけど、 なんかこう普通に追い出されてて。 「なんだ大した事ねえなぁ、こいつら」と。 言うだけ言ってこれかよと。

あと学生闘争ってのがあったじゃないですか。 で、文連っていうのもその当時で50年っていう歴史があったので、 昔の委員とかに左の人が沢山いたりとか。

慶應ってもともと商業に強い大学ですからね。 歴史を反映している所があって、 どうしても商売人が多いんで学生活動がそんなに盛り上がってなかったんですよね。

でも、中にはサラリーマンの倅とか貧乏人が入ってくるじゃないですか。 そうすると、そういう寒い左翼活動に従事するんですね。 ビラ撒いてみたりとか、学校の授業料の値上げに反対してみたりとか。

やっぱ、OB見てると断絶があるんですよ。世代的なもので、昔のお年寄りたちは体制を利用しようというところがあって、学生闘争世代は左翼一色、最近はノンポリ。話が全然合わない。 我々は「体制派でございます」というのをやっていたお陰で、 一番上の世代と仲が良いっていう。二重構造になってるんですよ。「良い勉学ができる保証を勝ち取るために学費値上げ賛成」とかやってましたから。

KJ : そういう意味では、昔に比べると今の文連って、目立つ事はしていないですね。

それが一番良いと思いますよ。

僕の時代は一番最後だったと思うんですよね。 そういう学生運動みたいなのの。

学生運動というか、ちょうど労働争議とか革マル派とか、あの辺ですよね。 あの頃には、まだああいうのがかなりの数慶應に居たので。実際。 で、左翼が「成田の一坪地主になりましょう」とかビラまいててですね、 うるせえよおまえ、って。

あとは、東京の空を汚すなとかいう活動してる連中とか。

当時から環境団体とかもいたんですよね。 環境団体は人畜無害だから良いんですけど。 「三田祭で使うプラスチックトレーをデンプンで出来た物でやりたい」ってオファーが来て、コスト見てみると4倍とか。 「たけぇよ!おまえ」って。 

ま、そういうくだらない事が色々あってですね、非常に面白かったですよ。 面白かったというか役に立ってますよ。 授業が役に立たない割にはこういうのは役に立つという。 まあそういった流れですね。大学時代って言うと。

■自治会時代の思い出

KJ : 自治会に入ろうと思ったきっかけは?

いや特に無いです。 単に「人がいないからなんとかせえ」っていう先輩からお達しが廻ってきたんです。

当時、僕結構サークルを兼任してて。 バンドとかオタクとかやりながら生活していたんですけど、 「文連の後を継ぐ奴がいないからやれ」っていう話になって。

あとは、当時塾生会館が部室の割当をやってて、 あれを仕切る奴がいなかったんで「一番まともそうだ」って事で呼ばれました。

でも結局僕が一番まともじゃなかった(笑)。

まあ、僕の一代前が、結構まともじゃない人達が多くてですね、 いろんな所で喧嘩して、僕の世代がそれをまとめてたりとかいうのがあって・・・

その人たちが長銀や山一証券に入ってたりして、 「みんな無くなってやんのバーカ」みたいなのがありましたけどねえ。 ちょっと面白かったですね。

■留年

KJ : 丁度就職氷河期の頃ですね

僕が丁度就職氷河期と言われる2年目かな? 僕の前の代はまだ就職が難しくなかった時代で・・・ 今は結構慶應といえども楽ではないんですよね?

僕の時には文学部で「会社に入れない」ってヤツが結構いて、 失業と言うか「どこにも入る所がない」って言って留年してたりしたんですよ。無理やり大学院に行ったりしてね。そんでまた、採用してくれるところがないと(笑)。

で、政治学科だった僕は就職する所が結構あって。 電通とか日立製作所とか、いろいろ内定は貰ってましたけど、 結局、小さい所が良いって思って国際電気って所を選びました。

でもその後、内定決まったにもかかわらず留年したという。 しかもシーズンスポーツ落としたという泣かせる事情があって(笑) シーズンスポーツ落として留年って言うのはなかなかないなと。 で、また就職活動して同じ所に入ったという。 また委員長やりながら。

まあそんな感じですね。 そういった意味で言うと、慶應には結構長くお世話になりました。 足掛け11年ですか。見事にこう、すぽーんと嵌まって。 大変は大変だったですけど面白かったですよ。非常に。うん。

■ネットとの出会い

KJ : ネットとの出会いはいつ頃からですか?

中学高校とパソコンをやってて。 海外の経済ニュースとか株価とかも好きだったんですよ。 僕、経済に興味持ったのが比較的早かったんで。 で、「こりゃおもしれえや」ってパソコン使って、値動きのグラフを作ったりとか。 あと当時、野村がファミコントレードってのを作ってたんで、 株価見るためだけに親父騙して買ってきたりとかね。

KJ : ファミコントレード(笑) そんなのあったんですね・・・・

野村證券がね。作ったんですよ。当時まだバブルの時代なんで。

僕自身も高校時代バブル全盛だったんですね。 当時から、土地だとか株だとかで世間が騒いでいて。 まあ、うちの父親もそれで嵌められたクチではあるんですけどね。 自分自身も土地とか株に興味があったんで、日経新聞とか読む訳ですよ。

それで投資に興味を持って。 手っ取り早く情報を集めようと思って、 当時はまだネットとかには大した物が無かったから、 証券会社のサービスを使ったりとか、知り合いの証券マンの「草の根BBS」っていう パソコン通信のはしりみたいな物に参加したりとか。 そこでパソコンが生きた、みたいなのはありましたね。

KJ:じゃあインターネットはパソコン通信からそのまま?

パソコン通信からそのままインターネットに入ってますんで、 そういう意味ではインターネットが立ち上がる所から見ていますね。 自力でごりごりプログラム書いたり・・・いわゆるパソオタですよね。 「パソコンと共に生きてきました」みたいな。そういう前半生でしたね。 友達もいないとか、そういう感じですね。

■就職

KJ : PCにずっと関わってきて、大学は自治会と体育会。
興味の幅が広かった様ですがどうしてメーカーに就職されたのですか?

卒業後に就職した国際電気っていう会社は、実は元々目をつけていた会社で、 日立の通信部門を一手に引き受けていた会社だったんですよ。 元々通信事業ってのは半官半民だったんですけども、 ハードウェア部分を国際電気、通信インター部分をKDD(第2電電)っていう分割があって、 メーカーの割合が今後伸びていくだろう、と。

国際電気は日立の半導体部分と、無線通信とかそういうのをやっていたんです。 元々、携帯やりてえなぁと思ってたんで、携帯の専業で安定してそうな所って事で選んだと。 で、読みが外れた訳ですけど。

組織ってのは、ダメだったら全然ダメだなあっていうのを実感しました。 ただ、国際電気には結構勉強させてもらった部分があった。 大企業とか、人が沢山いる組織ってのは朝礼やったり体操やったりっていうのが無いとまとまんねえんだな、っていうのが分かったんですよね。 あとでコンサルタントなどもやるようになっていろんな会社に入っていくようになると、組織がバラバラに動いていて収集つかない会社って結構見るんですよ。 そういう時に日立的なマネージメントと言うか、「賃金は低いけど、皆で仲良く頑張っていこうよ」みたいなコブシの入っている会社の方が組織の売上が安定してたり、新しい商品が出しやすかったりとかするという。 そういう意味では勉強になりました。 アレを見てなかったら多分そんなこと言ってなかったと思うんですよね。 「駄目なヤツは首にしろ」みたいな感じで。

当然その工場では、言っちゃなんですけど、あんまり教育受けてない人が安い賃金で働いて、でも、それよりも更に安い賃金で他の国が作ってる訳だから競争をしなけりゃいけない。

非常に苦労されてる訳ですよ。 そういう人たちが不満を持たないように、 なおかつさらに創意工夫をするように、っていうような、 製造業の工夫っていうんですかね? 組織上の工夫を実地で見てきたっていうのは経験として大きかったかなと思いますね。

【関連リンク】
日立国際電気 http://www.h-kokusai.com/



取材   坪井直紀
吉川英徳
萩原翔一



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