ゆで卵を高速回転させるとジャンプしながら起き上がることが慶應義塾大学の研究グループによって実験的に証明された。今回はジャンプの可能性を理論的に予測していた慶應義塾大学法学部下村教授にお話を伺った。
身近にある現象から、不思議な物理の世界を味わってもらいたい。
■下村教授の個人ページはこちら
http://web.hc.keio.ac.jp/~yutaka/
下村教授は2000年から2002年まで英国ケンブリッジ大学に塾派遣留学していた。そのとき世界的に有名なモファット教授(※1)の講演会に参加して、ゆで卵を回転させると起き上がる現象に関するコメントを聴いたという。
モファット教授によると、ゆで卵の起き上がり現象は学生の試験に出す程度の問題であるが、なんらかの方法で速く回転させた生卵が起き上がるか否かは未解決の難問であるという。
この講演をきいた下村教授は、生卵の“難問”を解く決心をして、まずはゆで卵の“試験問題”を解いてみることに挑戦した。しかし、解析的に計算(実際に数式を解くことによる理論計算)してみると、用いていた条件ではどうしても卵が起き上がらないという結果になってしまった。
「モファット教授は偉い先生なのだから、多分私が間違えているのだろうと思って何度も計算しました。」
しかし、どうしても答えが合わなかった彼は、あるコンサートでモファット教授と偶然再会を果たし、この問題を共同研究して行くことになった。
「結局あるところでモファット教授が間違っていて、我々の想定していた条件では立たないということがわかりました。試験問題どころか、世界中誰も解けていなかったのです。」
足りなかったのは摩擦のある床との間に生じるすべり条件であった。すべりによる全体のエネルギー減少によって卵の安定性が崩れ、小さな乱れが増幅して行くことが証明できた。これによって、卵の水平回転が不安定であることがわかったのである。しかし、これだけでは起き上がることの証明にはならなかった。
ここで、逆さゴマの理論が登場する。かの原子物理学者ボーアも探求したという逆さゴマの運動は“ジェレット定数”(※2)に着目して説明されていた。しかし、この定数は逆さゴマのような球体では存在するが、卵のような回転楕円体では存在しない。よって、この理論による卵の起き上がり現象の解明は不可能かと思われた。
「正直、困ったなと思いました。しかし試行錯誤の結果、ジェレット定数は非常に速く回転している系でやはり存在するということがわかったのです。」
この結論に至るまでに、下村教授は数百ページにも及ぶ膨大な計算を行ったという。
この証明により卵の起き上がり理論が完成し、その成果は2002年英科学誌「ネイチャー」に発表された。イースターの時期(※3)だったこともあって世界的に大きな注目を浴び、「卵の逆説」解明と呼ばれたこの研究は、教授自身の英国テレビ番組出演、ロンドンの科学博物館での研究紹介イベント、さらには世界中の新聞や科学誌で論文が報道されるなど、国際的にも大いに注目された。
しかし、卵のジャンプを実験的に証明するのは困難である。手で回転させても1800rpmほどまで可能なのだが、手による回転では完全に水平回転させることが難しい。また、ジャンプの高さが0.1mm程度という微小さも測定が容易でない原因である。ここで、下村教授によって組織された慶應義塾大学のチームが登場する。三井隆久医学部助教授、相原今朝雄理工学部実験教育センター職員、寺山千賀子法学部助手、小林宏充法学部助教授である。三井助教授らは独自の卵回転装置を開発し、また完全な回転楕円体である卵のアルミ製模型を作成することによって実験を可能にした。
卵回転装置と言葉にすれば簡単だが、あなたはどのようにして卵を回転させるか想像できるだろうか?
コロンブスの卵という話があるが、やはり世界に前例がないことを行うのは難しい。しかし、三井助教授は構想に2年を費やし、その装置の開発に成功した。様々な形の卵に対応できることに加え、回転の速度も調節できる。この装置によって回された卵の運動を、高速度カメラで撮影された画像、マイクにより収集された音、そして銅版とアルミの卵の静電容量を同時計測することにより調べるシステムも完成した。こうして、卵がジャンプする事実を実験科学的に証明する準備が整ったのである。
教授らは夏休みの短い時間を利用し、日吉の実験室で集中的に実験を行った。模型でつくったアルミの卵だけでなく、実際にゆで卵を回転させて高速カメラで撮影し、そのジャンプを記録することにも成功した。驚くべきことに、この実験結果は卵がジャンプする時間やジャンプの高さが頂点に達する時点などのデータが下村教授の計算とほぼ完全に一致していたである。
今回の成果は論文にまとめられ、英国王立協会によって出版される。インターネット上ではすでに公開されており、今回もイースターに間に合ったこともあって再び世界各地で反響を呼んでいる。
本研究成果の発見物語は、現在http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/science/egg/に連載中であり、書籍としても慶應義塾大学出版会から本年秋頃に刊行される予定である。
「解明されていない様々な現象が身近にまだまだあります。そのようなテーマは、たとえ理論的に説明することが難しいとしても、現実にその現象が存在するのですから興味が尽きません。」
今回の下村教授による「ジャンプするゆで卵」の研究は、わずかな乱れが増幅されて異質の現象を招くことを一般に示唆しており、大気運動や構造物の不安定性理論など様々な研究への応用につながることが期待されている。
下村教授は現在法学部の教授であり、日吉設置共通授業科目である「物理学I・II」を担当している。サブタイトルを“素朴な疑問に答える物理学”とし、文系の学生にも興味が持てるような授業を行っている。教授によると、課題「身近な現象の解明」において、文系の学生ならではのすばらしい視点でレポートが提出されることもあり、あと少し発展させれば論文として成り立つものもあるという。授業では今回の「卵の話」も講義する予定とのことである。
下村裕教授は急な取材の依頼にも快く応じてくれ、大変気さくな方であった。この場を借りてお礼を申し上げるとともに、塾教授としての今後のさらなるご活躍を期待します。
(※1)モファット教授
下村教授と共同研究を行った、世界的に有名な理論物理学者である。現在はケンブリッジ大学名誉教授で流体力学を専門にしている。Euler’s Diskの理論解明でも有名。Euler’s Diskはコインと同様の円盤であり、円周部分が地面について回転する状態において、回転の減衰と共に接触部の出す音の高さが上がって行く。空気抵抗による系のエネルギー散逸を導入することにより、有限時間内に周波数が無限大に発散することがモファット教授により示された。
参考(英語ページ)
“Prof. Keith Moffatt” http://www.damtp.cam.ac.uk/user/hkm2/
“Euler’s Disk” http://www.eulersdisk.com/
(※2)ジェレット定数
逆さゴマ(tippe-top)理論解明の鍵となった運動定数。第一発見者のJellettにちなんで名付けられた。
参考
Jellett, J.H.A Treatise on the Theory of Friction (Macmillan,London,1872)
(※3)イースター“復活祭”
日本ではあまり馴染みがないが、十字架に掛けられ一度死んだはずのキリストが3日後に蘇ったことを記念するキリスト教の記念日。“春分の日の後の最初の満月の日の次の日曜日”に祝われるのが一般的である。キリストが墓から復活したことと卵からのヒナが誕生することにかけて、殻に鮮やかな彩色を施したゆで卵を飾り祝う風習があり、これらはイースターエッグと呼ばれている。
ちなみに今年は4月16日だった。